A Confession of a ROCK DRUMMER

KenKenという太鼓叩きの独り言。

【好きなアルバムについて語る】The Beatles - The Beatles (White Album)

 

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1968年リリース、The Beatles通算10作目のフルアルバム。

真っ白なジャケットにエンボス加工でバンド名が書かれただけの、もはやシンプルとかを通り越して何の意図も無いアルバムジャケット、ジャケットだけでなくサウンド面でも前作までのサイケデリック色が完全消失した事や、バンド史上初(結果的にフルアルバムとしては唯一。ちなみにマジカル・ミステリー・ツアーの一番最初のイギリス盤のやつは2枚組EPだったりするけど。あ、コレ余談ね)の2枚組アルバムという点も、今作が彼等のディスコグラフィに於いて特徴的な所以だったりする。一応正式タイトルは『The Beatles』って立派なセルフタイトル作なんだけど、「ホワイトアルバム」っていう通称が浸透し過ぎてて、もはや正式タイトルで呼んでる人など誰もいない。

 

68年って一応サイケデリック全盛の時代だし、ビートルズとしてもコレの1年前にあの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』(1967)という、ジャケットから中身までコテコテにサイケなアルバム出していたし、何ならこれ作るちょっと前もサイケなノリの映画『Magical Mystery Tour』(1967)を作ったりとかしてたのに、たった1年でのこの突然の心変わりは一体。以下に記すが色々思い当たる理由はあるが、結局のところ真意は未だに謎である。

個人的な話だが、「多彩な方向性の楽曲が多数揃ってて捨て曲も特に無いけど、全体としては纏まりに欠けるアルバム」の事をよく「ホワイトアルバム的な」って言ったりしてる。個人的にだけど。例えばTodd Rundgrenの『Something Anything?』(1972)とか。

 

1965年頃、それこそアルバム『Rubber Soul』を作った辺りから、ビートルズは初期の「分かりやすいラブソングをポップに鳴らすアイドルバンド」的立ち位置からの脱却を試み始める。それと同時にこの辺りから、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴそれぞれの音楽的・人間的個性というのも少しずつ際立ち始め、「あくまでポップスに拘るポール、より内省的な世界観を描くジョン、皮肉屋のジョージ、平和の象徴リンゴ」というようなキャラが少しずつ形作られていった。

この様な脱アイドル化とアート面の更なる深化を志向したのは、プライベートでのドラッグ体験やボブ・ディランからのインスパイア(これは特にジョンに関してだけど)などもあっただろうけど、結局のところはルーティンワークと化したツアー活動への嫌気から。だって当時の音響設備では5万人の女の子の熱狂に勝てる音量なんか出せるわけもなく、更にモニターなんて便利なものなんてもっと無いわけで、結果何が起こったかと言うと、ステージに立って演奏してても、全てファンの泣き叫び声に掻き消され自分達の音なんか殆ど聞こえないような状態になってしまうという、現代ではにわかに信じがたい環境下に置かれていたという。最初こそちゃんとリハーサルもして、そんな過酷な状況下でも必死にアイコンタクトして縦もしっかり揃えて、各々ミスもしない、ハモりも外さないというクオリティの演奏が出来ていたけど、そんな見事な演奏も客席の連中はキャーキャー叫んでるか、ステージに向かって突撃しては警備員に捕まっているか、中には叫び過ぎて失神してる奴とか、まぁ要するに誰も聴いていないワケで。そんな中ではせっかく作った新曲もセトリに入れる気も失せるし、中音も外音もろくに聴こえない環境で演奏したってスキルアップや新たなノウハウを掴むなど出来る筈もないワケで。…ってそんなツアー活動を結局デビューから4年間も続けたんだから、彼等の忍耐強さって相当だったんだと思う。

 

ツアーではそんな一方で、スタジオ内では4トラックレコーダーを2台同期させる事に成功。よりレコーディングで出来る事が広がっていく。今まで一発録りの流れ作業だったレコーディングが、リテイクが容易になった事、オーバーダビングで録れる音の種類も質も一気に上がった事で、より細部に拘った作業が可能になった。この頃辺りから「未発表テイク」の量が増え始めていき、これらは多くが後に海賊盤として世に出回る事になる。8トラックでのレコーディングという過去最高に優れた環境を手に入れた事によって、バンドの拘りや好奇心はどんどんエスカレート、リテイクの繰り返しだけでは飽き足らず、「こんな楽器使ってみようぜ」「こんな音入れてみない?」「ちょっと複雑なハモリとかやってみよう」「てかこの曲ギターいる?」「なんか逆再生してみたらめっちゃサイケ!やば!」などと、当時としては前代未聞のアイデアが湧き水の如く溢れ出ていき、遂にはツインギター4ピースバンドが生演奏で再現出来る限界をあっという間に飛び超え、1965年に『Rubber Soul』、1966年の『Revolver』という作品を生み出してしまう。ジョージはインド文化へ傾倒する勢いそのままにシタールやタブラを取り出し、ジョンはテープの逆再生を利用したギターソロを採用、ポールは弦楽四重奏の曲を作ったりするなど、もはややりたい放題(多分このテンションの上がり方はLSDの影響もあったのかなぁ)。従来通り通常営業だったのはリンゴだけだった。

「これ以上音を重ねたらライブはどうするんだ!?」

…メンバー内、或いは外部の人間から絶対こんな意見が出ていたに違いない。かのブライアン・エプスタインもきっとそう思っていたに違いないが、「でもあの聴衆を見てみろよ、誰も俺達の演奏なんかまともに聴いてないじゃないか」とメンバーに反論されては、返す言葉も無かった。それに若手時代からまるで親のように彼等を見守ってきたエプスタインとしても、疲弊しきっているツアー時とは別人のようにイキイキしている4人を見ているのもそれはそれで楽しい…って具合にちょっとモヤッとはしていたんじゃないかなぁ。一方プロデューサーのジョージ・マーティンは、ライブなんて自身の管轄外だから全く関係ないので、「良いぞもっとやれ」と積極的にバンドのスタジオワークを後押ししていたんだろうな、多分。てか絶対そう。だって「ダライ・ラマが山頂で説法してる風な声が出したいんだけど」っていうジョンの意味不明な無茶振りに対して「じゃあレズリースピーカー通せばええんちゃう?」って返しどうやったら思いつくんだよって話。

 

そして1966年の日本武道館でのライブで、初めて静かな聴衆を前に演奏したことで、自分達の演奏力の低下を痛感、その後のフィリピンツアーでもゴタゴタや、そしてかの有名なジョンの「キリスト発言」がアメリカで大炎上した事へのフラストレーションなどもあって、兼ねてから抱いていたツアーへの不満が限界に達したビートルズは、同年のキャンドルスティックパーク公演(アメリカ)を最後に、遂に人前で演奏する事をやめる。

その後「これからはターンテーブルが俺達のステージだ」と言わんばかりに、バンドは曲作りとレコーディングに打ち込んでいく。LSDマリファナにも後押しされた格好で、彼等のインスピレーションは止まる事を知らず、1967年リリースの、世界初のコンセプトアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』で1つの頂点を迎える。スウィートなラブソングを奏でるマッシュルームカットのアイドルバンドとして現れたビートルズは、たった数年のうちに、無精髭に丸メガネ、ボサボサ髪の一流アーティスト集団へと変貌を遂げたのだった。

 

ところがその暫く後、マネージャーのブライアン・エプスタインが急死(真相は半世紀以上経った今でも謎に包まれている)。リバプール出身の4人の田舎者を世界的スターにのし上げた仕掛人としてだけでなく、メンバーの精神的支柱でもあったエプスタインの死は彼等に大きなショックを与える。『Sgt. Pepper's〜』の成功から来る達成感か、メンバーそれぞれがソロワーク(ジョージはソロアルバムを作り、ポールは映画音楽を手掛け、リンゴは俳優業を始め、ジョンはヨーコと出逢う)に手をつけ始めていたりしていた中での緊急事態だった為、メンバーの結束が緩む事を危惧したポールが主導となって完全自主制作映画『Magical Mystery Tour』を企画・制作するも大ゴケ。ツアーを辞めてやっと自由な時間を手にしたばかりのタイミングで訪れた突然の悲劇と、その後立ち直りを目指した企画の失敗などで、バンドは内外ともに混乱していく。一度頭の中を全てフラットに戻す為、そして同時に彼等を蝕んでいたLSDなどのサイケデリック・ドラッグからのデトックスも目指し、バンドはマハリシ・マヘシ・ヨギの元で瞑想修行をする為インドへ渡る。まぁここでも結局何やら色々あったらしいけど、結果的には心身共にスッキリした上でイギリスへ戻り、インドで修行の合間にメンバー各々が作った楽曲群を一気にレコーディングして出来上がったのが、今回ご紹介する『The Beatles』、通称ホワイトアルバムである。うわっ前フリ長っ。

 

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さて、インドでの瞑想修行の末、各々ある程度はスッキリして、また修行の合間で息抜き的に作った曲も手土産に、ビートルズはイギリスへ帰ってくる。

この時メンバー全員分合わせて既に40曲以上が出来上がっており、スタジオ前に一旦ジョージの家でこれらを整理、最終的に26曲に絞られた上でデモテープが制作された。この時のデモテープは後に「イーシャー・デモ」と呼ばれ、海賊盤やアンソロジー、記念リイシュー盤ボートラなどで世に出ている。

この26曲を引っ提げてスタジオ入りし、後にまた更に新曲を加えたりして最終的に30曲以上が完パケする。多くはやはり瞑想の成果か、これまでのサイケ色は完全に消え去り、よりシンプルかつオーガニックな、バンドサウンド中心のサウンドに変化した。過度なオーバーダビングやエフェクトなども殆ど登場しない。中には「Revolution 9」のような前衛音楽など実験的な曲もあるものの、概ね非常に風通しの良い、スッキリしたサウンドでアルバムカラーは統一されている。こうして結果的に「脱サイケ」化した理由としては、前述の瞑想により心身共にデトックスした結果か、或いはインドに赴いた際に手元にあったのがアコギしか無く(あ、でもピアノくらいはあったのかなぁ)、自宅ならすぐ近くにスタジオがあったけどマハリシの施設の近くにそんなもの無いし…という状況も無関係では無かったと思われる。

 

みんないっぱい曲作ったし、いっぱいレコーディングしたなぁ、しかもどれも良い曲ばっかだし…

…とここで気付く。「あれ、曲多くね?」

ジョージ・マーティンも一言「うん、曲多過ぎるよ。1枚分に削らないと」

じゃあここからどう絞って纏めていこう…となったところで、どういうわけか意見が全く纏まらない。

それもそのはず、40曲作ったと言っても、殆どの曲はメンバーそれぞれ1人の作業で完結しており、作曲:レノン=マッカートニーとクレジットされた曲も、実際は共作など殆どしていなかった。2人が共作しなくなったのは別にかなり前からだけど、この頃になるとそれぞれの個性やエゴが際立ち過ぎて、もはや共作しようにも相容れなくなってしまっていた。ジョージもジョージで、軸は定まらないし数も少ないものの今まで以上に型から抜け出した曲を多く出していたし、リンゴもマイペースにコツコツ作っていた「Don't Pass Me By」を初の自作曲としてアルバムに提供し、相変わらず控えめながらもようやくバンド内で明確な自己主張をし始めていた。

ジョージはアンソロジーでのインタビューで、「当時のビートルズは多くのエゴが渦巻いていて、曲を削るに削れなかった」といった趣旨の発言をしている。結局レコーディングも、蓋を開けてみればメンバー全員が参加した曲は意外と少ない。スタジオに籠りっきりで多重録音に熟れ過ぎていたし、おまけにいよいよ本格的な8トラックレコーダーが導入されたりした結果、もはや自分で演奏出来る部分は自分でやっちゃうよね、という結論に至ってしまっていたのだ。誰かに弾いてもらうにしても「ここ後でソロ入れといて〜譜面に起こしてあるから〜」程度のディスカッションしかしなくなっていく(そんな事やってっから当時リンゴが一時的にバンド離脱しちゃったりしてね)

それに、そもそも各自の曲作りの段階でアルバム制作までは想定しておらず、ただ気晴らしにギター爪弾きフフンと鼻歌で作った曲達に統一性などある筈も無かった。

だから「この曲は外していいんじゃない?」なんて軽はずみにでも言った際には、その曲を作った人間から猛反発を食らうか、「じゃあお前のその曲も外せよ!」みたいな喧嘩に発展しかねない空気に。ああでもない、こうでもない…4人全員がお互い譲らず、ジョージ・マーティンも交えて話し合う中、最終的には「もう全部入れちゃわない?2枚組とかにしちゃってさ」と誰かが言ったのか、LP2枚組、全30曲収録という、とんでもないボリュームで本作は世に放たれたのであった。

 

真っ白なジャケットにサイケ色の一切ないシンプルなサウンドは、当時フラワームーブメント真っ只中だった時代に於いては殊更特徴的で、まるで全員酔っ払った大宴会の席で1人だけシラフでいるようなものだった。

多彩過ぎるが故に統一性に欠けると評される楽曲群も、だからこそジャケットを真っ白にしてセルフタイトルを冠したと考えれば、「特にテーマもコンセプトも無いアルバムです。これが今の"ザ・ビートルズ"です。」という「テーマ」で纏まっていると捉えられる。

 

解散後のそれぞれの路線への布石と見る事も出来るし、即ちこの時誰も気付かないうちに既にビートルズは解散へと向かっていた、とする意見もある。

この頃のビートルズApple Corps立ち上げなど新しい取り組みも幾つか始めていたが、肝心のメンバーが見てる方向全員バラバラではいかん、と危機感を募らせたポールは、再びバンドを団結させる為に、原点回帰的なライブ一発録りアルバム『Get Back』を企画する。だが時既に遅かったのかタイミングが悪かったのか、後にこの「ゲット・バック・セッション」は悪夢として語り継がれる程メンバー間の関係を悪化させ、アルバムは一旦お蔵入りになる(後にフィル・スペクターの手により『Let It Be』として完成)。修復不可能な程に亀裂の入ったビートルズは、その後「解散」を視野に入れた上で『Abbey Road』(1969)へと着手していくのであった。

 

余談だが、ビートルズが解散した1970年、ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンなど当時のシーンを牽引していたアーティスト達が続々とこの世を去り、その前年にはローリング・ストーンズの「オルタモントの悲劇」など、様々な不幸によってフラワームーブメントは急速的に萎んでいく事となる。世間より一足早くサイケ文化から抜け出したビートルズが、あくまで結果論ではあるが、自身の解散を以てフラワームーブメント及び「1960年代」という時代の幕引きの一役を担った、という風に捉えるのは考え過ぎだろうか。