A Confession of a ROCK DRUMMER

KenKenという太鼓叩きの独り言。

【好きなアルバムについて語る】The Who - Endless Wire

 

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2006年リリース、UKレジェンド枠の一角を占めるバンド、The Whoの11枚目のアルバム。この1つ前のアルバムが1982年『It's Hard』なので実に24年振り、また再結成以来初のアルバムである。このアルバムが出る前の2004年にThe Whoはバンド初の来日を実現しており、またリリース後の2008年にも単独来日公演を行うなどもあって、基本的に人気の無い日本でもそれなりに注目を浴びていたが、既にキース・ムーンだけでなくジョン・エントウィッスルもこの世を去っており、「2人無くしてThe Whoと言えるのか」という論争を後々に招くこととなった他、意外と簡素なサウンドメイキングや、従来以上に内省的な作風などもあって賛否両論な扱いを受けている。

制作は従来通りピート・タウンゼント完全主導で行われているが、ザック・スターキーピノ・パラディーノ含め外部ミュージシャンの起用は限定的であり、多くの楽曲でピートが1人で演奏してロジャーが歌う、という手法も採られている。

 

前述した通り、世界的に見ればThe BeatlesThe Rolling StonesThe Kinksらと並び、1960年代イギリスロックの代表格として君臨しているにも関わらず、日本国内においてはThe Whoは相対的に人気・知名度が落ちる。いや知名度は十分あるか。だが一般層に対しては、初期の「My Generation」とか「The Kids Are Alright」とかが所謂ロッククラシックとしてそこそこ知られてる程度である。とは言っても、2008年の単独来日公演は日本武道館さいたまスーパーアリーナなど大会場をしっかり埋めているので、正確なところまでは分からないけれど。

彼等が所謂「スモール・イン・ジャパン」になってしまった理由として、全盛期(60〜70年代)に来日しなかった事などが多く語られるが、同時にその全盛期に出したアルバムー『Tommy』(1969)や『四重人格』(1973)ーで提唱した「ロック・オペラ」というコンセプト自体がとにかく分かりにくかった、というのが最も大きいと思われる。この当時になると、所謂コンセプトアルバムというのは様々なジャンルで生まれてはいたが、例えばThe Beatlesの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』(1967)やThe Beach Boysの『Pet Sounds』(1966)などは、コンセプト云々以前にその楽曲に強烈なポップさがあったし、Pink Floydのようなプログレッシヴロック勢なども、展開の読めない複雑な楽曲構成やテクニカルな演奏などがあり、要するに「コンセプトだかテーマだかよく分かんないけど良い曲揃ってるor聴き応えがある」という、オタク心をくすぐる音楽的な強みがあった為、まだ日本人でも分かりやすかった。一方でThe Whoのロック・オペラはと言うと、楽曲はポップっちゃポップだけどThe Beatlesほどでも無いし、高い演奏力こそ注目されどプログレ勢のようなテクニカルさは無かったし、アレンジや構成も、所々優れた情景描写こそあれど基本的に強烈な聴きどころがある訳でもなく、アルバムのコンセプトの殆どをその歌詞の物語性に強く依存していた為、英語の分からない日本人にとっては何のこっちゃさっぱり分からず、結果「多分すごいんだろうけど、パッと聴いた感じなんかパンチない」という印象を与えてしまっているのである。実際、The Whoのアルバムで国内で最も評価されていると思われる『Who's Next』(1971)は、元々「Lifehouse」というオペラを基に作られた楽曲群を、アルバム制作頓挫に伴いそのコンセプトを破棄し、シンプルなロックアルバムとして、コンセプト・アルバムの体裁を有さずに完成されている。そうなんだよね、正直自分も純粋な「聴きもの」として『Tommy』や『四重人格』を聴こうってあんま思わないもの。歌詞カード手元に自分で和訳も用意してじっくり聴いて初めて「おおっ…!」てなったし、『Who's Next』も前述の『Lifehouse』のタラレバを想像して聴きながらワクワクしたりしてたし。ディズニーのサントラだって映画の映像を既に観た上でそれを思い浮かべながら聴くから楽しめるのであって、フーのロックオペラには映像無いもんね、基本的に。

まぁ他にも例えば、そもそも「モッズ」というカルチャー自体も日本人にはピンと来なかったり(純粋な不良集団としてはストーンズの方が100倍分かりやすかった)とか、ステージ上でギターやドラムを破壊するパフォーマンスなどのプロトパンク的イメージと、ロックオペラという文学的な音楽性という、相反する個性が頭の中で結び付けづらいなど、彼等の持つあらゆる強みがことごとく日本人には分かりづらかったという不幸(?)もあって、本日に至るまで日本国内でThe Whoが「60年代UK4大ロックバンドの1つ」或いは「パンクのゴッドファーザー」以外の文句で正当に評価されているとは言い難い。今でこそサウンドのアグレッシブさと歌詞の文学性の共存なんか当たり前なんだけどね。なんか段々申し訳なくなってきたから、この話この辺で止めとくね。

 

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キース・ムーンの死後、1983年にThe Whoは正式に解散、したんだけど何やかんやで散発的な再結成を繰り返しており、その後1996年頃より本格的に活動再開している。解散後は基本的には各々ソロでやってたんだけど、なんかライブエイドに呼ばれて1回限りの復活してみたり、ボックスセットとか出してみたり、ピートのソロアルバムにThe Who名義で曲作って入れてみたり、しれっと『Tommy』(1969)の20周年ツアーとかやっちゃったり、とかとかとか。君ら本当に解散したの?

まぁでもThe Who解散の顛末というのが、キース存命の頃、もっと言うと結成直後から別にそんなに良くなかったメンバー間の人間関係が、キースの死と後任ケニー・ジョーンズの加入によって複雑化、ピートのメンタルがやられ薬物中毒のぶり返しを招いた結果、ロジャーの判断により解散、と言うもので、お世辞にも「美しい幕切れ」とは呼び難い結末だった。それ故にメンバーそれぞれThe Whoというバンドに対して未練というか、思うところはあったんだろうな、とは想像出来る。ましてやメンバー皆、解散前後のソロ活動に関しては決して成功したとは言い難く、そんな活動をちまちま続けるよりも、フーで1発ドカンと何かやった方が正直圧倒的に金が稼げるっていうのもあったので「いつか…」という考えは必ずメンバー皆持っていたのではないかとは思われる(ちなみにジョン・エントウィッスルが経済的にヤバくなり始めたのも多分この時期。ソロ活動が一番上手く行ってなかったとは言え、多分元々が割とだらしないのはあるのかね)。だが数本の再結成ライブに付き合った後にケニー・ジョーンズが正式に脱退、以降後任に相応しいドラマーにも特段巡り会えない事もあり(フィル・コリンズからラブコールがあったとか無いとか。ちなみにこいつ同時期にツェッペリンにも似たような感じでアプローチしてる)、じゃあ誰にドラム叩かせる?ケニーの時もただでさえ揉めたんだし、もうケンカはゴメンだぜ…という感じで話はなかなか進まなかったり、ピートはピートで難聴が悪化したが為にライブでの演奏に制限が生まれてしまい、そんなこんなでThe Whoは暫くの間、イマイチはっきりしない状態となってしまった。

 

ケニーが去った後の後任ドラマーの座は、最終的にThe Beatlesリンゴ・スターの息子、ザック・スターキーが射止める。ザックは幼少期にキースからドラムの手解きを受けており、言うならば弟子である。これ以上無い適任者を見つけ、またピートの耳も快方へ向かった事もあって、The Whoはようやく本格的な活動再開へと動き出す。手始めに『四重人格』(1973)完全再現ライブを皮切りにツアー活動を本格化、ザックの貢献もあって、キース死後に失われつつあったライブバンドとしての勢いを少しずつ取り戻していく。この頃のライブの映像は今でもYouTubeで見れるけど、鬼気迫るものがあるもんな。バンドを生き返らせたという意味でザックの功績は非常に大きい。

だが、これでようやくキースの穴が埋まった、再び理想とするThe Whoサウンドの再現が出来る…と思い立った矢先、2002年6月27日、ジョン・エントウィッスル急逝。享年57。翌日から全米ツアーが始まるというタイミングでの、あまりに突然過ぎる悲劇だった。

 

だが今回は彼等も止まらなかった。すぐさまピートのソロ作品への参加経験のあるベーシスト、ピノ・パラディーノを代役として招聘、ツアーを再開する。スタジオでも、2003年にグレッグ・レイク(言わずと知れた、元Emerson, Lake & Palmerのベーシスト)をゲストに迎えた新曲「Real Good Looking Boy」のレコーディングを行って以降、ピートの創作ペースも上がっていく。手始めに彼は、以前ネットで発表した短編小説「The Boy Who Heard Music」を基にしたミニ・オペラ「Wire And Glass」(後にEPとしてリリース)の製作を開始、そのオペラを中心としたアルバムの制作をThe Whoとして進めていく。同時期にインターネットという新たなオモチャを手に入れた事もあって、ピートのモチベーションは再結成以降最高潮にまで上がっていた。そうして2004年頃から制作・レコーディングを行い、24年振りの新作『Endless Wire』はようやく出来上がった。

 

音楽面に目を向けると、特段新しい事などはそんなにしておらず、前作『It's Hard』からの地続きとなる、あくまで「The Whoらしい」仕上がり。参加ミュージシャンはベースにピノ・パラディーノ、ドラムはザック・スターキーOasisのツアーの為1曲のみの参加に留まった為、残りはピーター・ハンティントンが担当。それぞれ前任者を意識したようなプレイが目立つ。この辺りはピートのデモを忠実になぞった結果とも考えられるが、「The Whoらしいサウンドに必要な要素とは何か」を考えた結果、ジョンのブリブリベースとキースのドタバタドラムがそのリストに載ってくるのは必然的なことである。M-1「Fragments」で露骨にBaba O'Rileyへのオマージュを見せてきたり、M-10「Sound Round」では絵に描いたフー印全開のアグレッシブな演奏を聴かせてくれる。

前述のミニ・オペラ「Wire And Glass」はアルバム後半に配置されいるが、前半部に収録された楽曲も多くが短編小説「The Boy Who Heard Music」に関連付いた内容になっている。この短編小説、詳しい情報がなかなか手に入らず、原文は読む事は出来ても解説とかも全部英語のものばかりなので、理解し切れない部分がどうしてもある。日本語解説サイトなんてほぼ無い為ざっくりとした所までしか分からないが、

「生まれ育った環境・文化・思想などあらゆる面で異なる背景を持つ3人の若者がバンドを結成し、キャリアを進めていく中で成功や失敗、衝突や苦悩、生と死などと向き合う様子とその周囲を変化を描く物語」

という内容のようである。アルバムの曲名や歌詞に出てくる単語…例えば「Fragments」「Ether」「Mirror Door」など、更には「Music」という単語すらも、辞書に書かれたとは違った意味合いを持っているのは間違いないが、もう少し詳しく調べる必要がある。また、ピートが長年作り続けたオペラ「Lifehouse」への言及も幾つか見られるようである。プロットのモデルはThe Whoのキャリアそのものである事は想像に難くないが、英語力に自信のある人は調べて読んでみて頂きたい。

 

だが、アルバム全体を見渡すと、「会心の復活作」と呼べる程の元気の良さは正直無く、前述の内省的な歌詞世界に合わせてか大人しさの方が目立つ。アコギ又はピアノの弾き語り曲も多い。アルバムの最後を締め括るM-19「Tea And Theatre」などは、自らの人生を振り返ったような、感動的な内容になっている。

まぁ実際に曲作ってみて、改めて自分達が年老いた事に気付かされた、同時に年老いたからこそ新たな発見があった、ってのはあるのかもしれない。実際60代だし、既にメンバー2人鬼籍に入っているわけだしね。考える事や感じる事がガラッと変わってしまっているワケで。

ただこの大人しさ、「老生」のような要素が、良くも悪くもこのアルバムの評価を何とも言えないものにしてしまっている感は否めない。2019年に『WHO』のリリース直後なんて、ロッキングオンで「Endless Wireは失敗作だ」って、思いっきり扱き下ろしてた記事も見た事あるし。正直アレは無いよなぁ、と個人的には思ったが。

 

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「老い」と向き合って作られた作品というのは、どうしても評価が分かれてしまう。ジョン・フルシアンテ復帰後のRed Hot Chili Peppersとか最たる例だけど、どうしても若い頃の勢いやキレの良さを知ってしまっている以上、それを求めてしまうのはファン心理として仕方のない事である。他にも再結成後のSteely Danドナルド・フェイゲンのソロ作なんかも賛否両論だった。

なので、そういった作品を正しく評価するには、アーティストの歴史と、本人達の人間性などというものをしっかり理解した上で寄り添う必要がある。ましてや今回のThe Whoのように長いブランクを挟んでいる場合は尚更である。大木というのは見た目だけではその強さは分からない、実際に断面の年輪を見て初めてその強さが分かるものである。ロジャー・ピート両名とも、周囲に若き日の幻想を抱かれる事は承知の上で本作をこういった形に仕上げてきている筈である。恐れる事なく自らの老いと、それに伴う心境の変化、キースとジョンを喪い、移りゆく時代や環境の変化へも親身に向き合い、彼等はこの『Endless Wire』を完成させた。その歴史は片鱗を理解した上でこのアルバムに向き合えば、それこそ年輪の如く、至る所にその月日の長さが刻まれている。本作もまた、The Whoというバンド、及びロジャー・ダルトリーピート・タウンゼンドという、激動のロック史を生き抜いた2人の男の生き様を克明に刻んだ、歴史的な1枚であると言えよう。

【好きなアルバムについて語る番外編】2020年聴いた新譜一覧(今更感)

 

もう2月になったと言うのに今更感しか無いが。

更に結論から言うと、元々新譜のチェックというのにそこまで熱心ではないので、枚数自体は非常に少ない。ブログなんぞに書くのが恥ずかしいレベルなんだけど、まぁ備忘録という事で。

 

 

King Gnu - CEREMONY

 

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1月15日リリース。

昨年シングル「白日」が大ヒットした事で一気に国民的バンドへとのし上がったKing Gnu。本作はフルアルバムとしては3枚目、前作からちょうど1年ぶりのリリースとなった。

随分リリーススパンが短いなぁと思って調べてみたら、レーベルがSony傘下?らしい。なるほど納得。矢継ぎ早なリリース戦略はSonyの得意技でもある。まぁ、それにバンドの創作ペースが追いつかないと破綻するというリスクも当然あるけど。

「ミクスチャーロック」という売り文句で宣伝されてるみたいだけど、今やミクスチャーロック=ラップメタルっていう昔の公式はもはや成立しないようである。個人的には良いことだと思う。だってミクスチャーって、普通のロックサウンドでラップしてるだけやん。冷静に意味分からないもんな、ミクスチャーって言う割にミックスされてる要素超少ないし。…話が逸れた。

オルタナティヴロックを基本としつつ、様々な音楽的要素がとにかくごった煮され、力技で纏め上げたような1枚。確かに少々無理矢理感ありつつも、概ねスタイリッシュで聴きやすい仕上がりではあるのだけれど、とにかく情報量が多く、絶妙に際どいバランスで成り立っている為、油断していると巧妙に隠された毒針に突然刺されるような、独特の危うさを孕んでいる。

大ヒットシングル「白日」を収録しているが、それ以外の楽曲もよく練られた個性的なものばかりで、ぶっちゃけ「白日」無くても全然アルバムとして成立してしまう。逆にこのモンスターシングルをよくアルバムに入れられたね、しかもこんなメンツで、と感心してしまう。この辺りは曲の出来た時系列が分からないので何とも言えないけれど。

 

 

 

 

Nova Twins - Who Are The Girls?

 

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2月28日リリース。UKの女性ロックデュオNova Twinsの1stフルアルバム。後述するBring Me The Horizonの『Post Human : Survival Horror』への参加でも注目された2人組。

彼女達、結成自体は2014年とそこそこのキャリアなのだが、今までのリリースはシングル・EPばかりで、フルアルバムは初めてだそうで。サブスク時代においてはやはり作るにも聴くにも時間のかかるフルアルバムって敬遠されがちなのかなぁ。

ヘヴィかつノイジーなギターサウンドに、ヤケクソな女性2人のシャウトが飛び交う、非常にパンキッシュな1枚。耳に残るメロディとかそう言うのは無いけど、日常に溜まった鬱憤を音で吹き飛ばすには一番。ある意味プリミティヴなパンクの姿とも言えるかもしれない。

正直こういう音を出すガールズバンドは昔から一定数は存在していたけれど、こういうギャルな見た目のは意外といなかったかもな、なんて。アー写だけ見たらヒップホップっぽいもんね。あと全体通して、この手のバンドが持ちがちなフェミニズム的匂いが全然しないのが逆に新鮮。そもそもそんな土俵で戦う気ありませんけど、てかパンクすんのに性別拘る必要ある?って事なのか。

 

 

Noel Gallagher's High Flying Birds - Blue Moon Rising EP

 

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3月6日リリース。2017年の3rdアルバム『Who Built The Moon?』以降はシングル・EPを短いスパンでリリースしていく活動スタイルに移行している感ある我らがノエル兄貴。これも去年出した『Black Star Dancing EP』『This Is The Place EP』と似たような、前述の『Who Built The Moon?』以降の路線を踏襲・正常進化したような作品。ぶっちゃけあまり変わり映えはしないので特段何か付け加える事も無いのだが、あのノエル兄貴もサブスク時代に合わせてリリーススタイルを変えてきたなぁという感じ。今後フルアルバム作る気あるのかなぁ?

 

 

 

Pearl Jam - Gigaton

 

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3月27日リリース。この辺りから新型コロナウイルスの影響が日本でもいよいよヤバくなってきた頃だったな。

Pearl Jamの実に7年振りのニューアルバムという事で。ここ2〜3年ずっと「アルバム出します詐欺」を続けてきた彼等だけれど、ようやくリリース。大変長らくお待ちしました。

先行シングル「Dance Of The Clairvoyants」がモロTalking Headsな曲調で、ここに来て新規軸か?と思いきや、フタを開ければ安定のPearl Jamらしさ全開の骨太なロック。前々作『Backspacer』(2009)と前作『Lightning Bolt』(2013)でも見せた、より肩の力の抜けた曲作りや演奏・歌唱で、その時その時感じた事をストレートに吐き出すというスタイルは変わらず。新鮮味とかは正直無いが、「これで良いのだ」と心から思える、安心の作品。ちなみに2020年にはこの後アルバムとは別でシングル「Get It Back」をリリースしたり、エディ・ヴェダーもソロで『Matter Of Time EP』を出している。今後もマイペースに続けてくれれば、それで良い。自分にとってPearl Jamはそういうバンドである。

 

 

 

Enter Shikari - Nothing Is True & Everything Is Possible

 

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4月17日リリース。詳しくは以前書いたブログをご覧頂きたいのだけれど↓

【好きなアルバムについて語る】Enter Shikari - Nothing is True & Everything is Possible - A Confession of a ROCK DRUMMER

内容自体はシカリにとって原点回帰的な作品である。

この頃になるとコロナの勢いがもうどうしようも無くて、世界中で大型イベントはバタバタ中止、ヨーロッパ諸国の殆どがロックダウン、日本でも緊急事態宣言が出されて、もうとにかくヤバい時期だった。2021年1月現在も状況はそこまで好転しておらず、Enter Shikariも未だ本作リリース後のツアーなどは出来ていない。ロックダウン中の自宅でのリモートライブもあれはあれで新鮮で面白いけど、やっぱ雰囲気出ないんだよなぁ。今思えばスケジュール通りのリリースが出来ただけでも奇跡だったのか。…また話が逸れた。

原点回帰的作品と言ったものの、構成要素は4th『The Mindsweep』(2015)、5th『The Spark』(2017)で培われたものが殆どで、それ以前の初期シカリっぽいB級スクリーモ的ノリは一切出てこない。ただあの当時の「なんかよく分かんないけどスゴい音楽作ったろ」的な未整理な初期衝動は再び感じる事が出来る。ただ未整理なものをただ陳列するのではなく、インタールード的楽曲を添えたりなどしてシームレスに繋げ、1枚のアルバムに纏める手腕は過去の経験からこそ。最近シカリ丸くなってない?って正直思ってたけど、このアルバム聴けば分かるが全然丸くなっていない。今後が楽しみな1枚。とりあえずライブで観たい。コロナ収束後の来日公演激しく希望。

 

 

 

 

The 1975 - Notes On A Conditional Form

 

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5/22リリース。前作『A Brief Inquiry Into Online Relationships』(2018)から約1年半弱という、彼等にしては驚異的に短いスパンで届けられた。もっとも、当初は2019年上半期のリリースを予定していたものが遅れに遅れた結果の2020年5月ではあるが。正直パンデミックの影響で下手したら一生出ないんじゃないか?なんて最初は疑ったくらいだったので、逆に5月にちゃんと出てビックリしたな当時は。

相変わらず長いアルバムタイトルだけど、前作・前々作と比べるとむしろ短いと錯覚してしまう。まぁ長さよりもその意味の取っ付きづらさの方が注目すべきなんだけど。

22曲、81分。白状するとまだちゃんと聴けてない。長いだけじゃなく情報量がとにかく多いのだ。1stのような80年代風アーバンポップスあり、2ndのようなアンビエントあり、3rdのようなEDMあり、アコギ弾き語り、オーガニックなギターによるパワーポップあり、ついにはオールドスクールハードコアまで飛び出すなど、常にカラーがアルバム通して目まぐるしく変化し、一瞬たりとて同じ瞬間が無い。この音楽的統合失調症は前作でも片鱗は覗かせてはいたが、今作でより進行しており、明確な到達地点は最後まで示されぬままアルバムは終わっている。前作もそうだったが、ちょっと理解するには時間の掛かるアルバムだ。いつかちゃんとレビューを書いてみたい1枚ではある。

 

 

 

 

 

SiM - THANK GOD, THERE ARE HUNDREDS OF WAYS TO KiLL ENEMiES

 

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6月17日リリース。

前作『THE BEAUTIFUL PEOPLE』(2015)以降はシングル中心のリリースだったので、フルアルバムは実に5年振り。日本のメジャーにしては珍しい。

「とにかく好きな事だけやる」というテーマで作られたアルバムであり、より洗練された印象だった前作と比較しても、全体的によりアグレッシヴになった音が目立つ一方、「FATHERS」のようなストレートに愛を歌うラガバラードなど、従来無かったスタイルの楽曲も多く登場。正直ハマってるかどうかと言われると、ってのは無くはないが、「俺が歌いたいから歌っとるんじゃ、黙っとれ」という良い意味で振り切った印象を与える。

レゲエとパンク・ハードコアとの融合のさせ方はここまで来ると熟練のレベルで、その巧みさと幅広さは正直Skindredなどの先輩バンドを超えつつあり、「レゲエパンク」を超えた「SiM」というジャンルと化すまであと少しである。個人的には正直前作の方が好きだったかなぁとは感じたりもするが、これからが楽しみになった1枚。

 

 

Neck Deep - All Distortions Are Intentional

 

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7月24日リリース。UKポップパンク代表株Neck Deepの4枚目のスタジオアルバム。

前作『The Peace And The Panic』(2017)から約3年振りの新譜。これまで1〜2年のスパンでアルバムを出してきたので、過去最長のインターバルを経てのリリースとなった(と言っても3年でも十分短いんだけど)

というのも、前作のツアーが落ち着いた辺りで、彼等は既に次回作の制作にはより時間をかける事を公言しており、バンドの音楽性の拡張や、新たなトピックでの作詞…即ち「従来型Neck Deepスタイルからの脱却」をテーマとして掲げたい旨を語っていた為、間隔が伸びたのはある意味有言実行の結果である。

そしてその言葉通り、今までのアメコミ風タッチから一転したシンプルなジャケット、従来のポップパンク色を大幅に減退させ、パワーポップ風味なミドルテンポの楽曲の比率が増え、社会風刺的コンセプトを基にした歌詞の採用など、Neck Deepらしさは残しつつ従来とは違う新たな方向性を志向している。人によっては凡庸なロックアルバムに聴こえてしまうかもしれないが、ポップパンクバンドが脱ポップパンク化しようとすると大体一度はこういう道を通るものなので(Fall Out Boyとかもそうだったし)、今作はNeck Deepというバンドの過渡期を刻んだ1枚と言えるかもしれない。

「実はすごい意欲作」な1枚なので、これから時間をかけてゆっくり評価したい。

 

 

 

 

 

Nothing But Thieves - Moral Panic

 

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10月23日リリース。Nothing But Thievesの3枚目のスタジオアルバム。

フルアルバムとしては前作『Broken Machine』(2017)から3年振りになるのだけれど、その間にEP『What Did You Think When You Made Me This Way?』を2018年に出しているので、新作リリースとしては約2年振りという事になる。

本作の内容もそのEPで見せた方向性をそのままフルアルバムにまでスケールアップしたようなものになっている。楽曲のスケール感もより大きくなり、サウンド面でもよりダークかつ重厚なラウドネス・アグレッションを志向したものとなっており、「脱インディーロック化」は更に進んでいる。更にコナー(Vo.)の歌唱力・表現力もより進化・深化を見せ、前作・前々作以上に様々な表情を見せてくれる。こういう類の緊張感や不気味さというのはやっぱりイギリス人の方が出すの上手いよなぁ。

作品を出す毎にどんどん鋭く、生々しくなっていく様には本当に脱帽。来日決まり次第絶対に観に行きたいバンドの1つ。

 

 

 

 

Bring Me The Horizon - POST HUMAN : SURVIVAL HORROR

 

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10/30リリース。Bring Me The Horizonの連作プロジェクト「POST HUMAN」シリーズの第1作。今作、バンド側は一応EPとして扱っているが、9曲32分という内容なら今の時代普通にフルアルバム扱いしても良いと思うけどなぁ。まぁ30分前後の長さでアルバムとしたくないっていう思いが実はあるのかも。意外とその辺はオールドスクールなのかな。知らんけど。

アルバムを出す毎にアグレッションから少しずつ離れていっている感あるBMTHだったけど、今回はめちゃくちゃ重いしめちゃくちゃ激しい。電子音もより攻撃的になり、これまでのBMTHの持つパラメーターが全部振り切れている。「Dear Diary」なんかデスコア回帰?なんて思ったくらいだし。もっとも、オリバーの進化した歌唱力と復活した往年のスクリームをしっかり中心に据えて最大限生かした上での激しさ、というものなので、ヘヴィ・アグレッシヴ一辺倒に終わらず、非常に高い整合性の元に成り立っている。ゲスト参加したYUNGBLUD、Nova Twins、Amy Lee (Evanescence)、更にBABYMETALも、それぞれの持ち味をBMTHに対して全力でぶつけており、そう言った化学反応を楽しむ事もまた一興。

結果的に32分で纏まってくれて良かった、それくらい熱量の高いサウンド。多分あと1曲多いと一気に胃もたれすると思うので、そのギリギリのボリューム。

この「POST HUMAN」プロジェクト、聞くところによるとあと3作続くらしく、しかもそれぞれでカラーが違う内容になるとか。これまでも「カテゴライズ」という概念と闘ってきた彼等だけに、今作もその既成概念に対抗する新たな武器としたいのだろう。

 

 

 

 

Prep - Prep

 

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10月30日リリース。前述のBMTHと同日。

UKのアーバンポップバンドPrepの1stフルアルバム。元々バンド自体は知ってたんだけど、1stアルバムのリリースはある日フラッと立ち寄ったタワレコで知った。意外と日本でもそこそこ知名度はあるらしく、日本公演も既に2回くらいやってるとか。全然知らんかった。

バンド自体は2015年頃から活動しているようで、「EDMやエレポップの部品を使ってAORを作ってみた」というような楽曲を多く出している。この1stも基本的にはその志向だが、エレポップ色は大分薄まってて、結果昔懐かしいAORそのままな仕上がりに。ただ曲がどれもとにかく親しみやすいし、アレンジもまたAOR好きのツボを的確に突いてくるので、もう何も考えずにただただ曲に身を任せて楽しめる。目を三角にして「焼き直しだ!」とか言おうと思えば言えるけど、曲がバツグンに良いとそんなのどうでも良くなるね、という1枚。疲れた日とか気付いたらこれ聴いてたな。

ちなみにさっきのタワレコの話に戻るけど、その時のポップの書き方が「UK発シティポップ!」ってなってて笑ってしまった。いや音的にゃ間違っちゃいないけどさ、外タレでもシティポップって呼んで良いの?

 

 

 

 

Smashing Pumpkins - Cyr

 

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11月27日リリース。今や90年代グランジオルタナ勢の数少ない生き残りとなってしまった感あるスマパン。10枚目のアルバムって事で良いのかな?ていうかMachina ⅡとTeargarden by Kaleidyscopeはアルバムとしてカウントするの?

2018年のリユニオン以降2作目。20曲72分というなかなかのボリューム。前作『Shiny And Oh So Bright vol.1 / EP : NO PAST. NO FUTURE. NO SUN』(2018)から約2年振りで、ここで「vol.1」って言ってるから次はvol.2かと思ったら全然関係無さそうなタイトルでちょっと拍子抜けした。タイトルに書いてないだけで一応続いてはいるらしいけど、最初は「やれやれビリーくん、相変わらず三日坊主だなぁ」とか思ってしまった。

前作はMellon Collie〜期の、所謂スマパンらしさのド真ん中を突いたようなサウンドだったけど、本作はThe CureとかJoy Division辺りからの影響の色濃い。特にシンセサイザーの使い方がモロそんな感じ。だがビリー曰く「いつも通り思い付いたフレーズをギターじゃなくてシンセでやってみたらこっちの方が良かった」という事らしい。確かによく聴いてみると別にギターで弾いてもいつも通りのスマパン風ロックになりそうではある。

ひと言で言うと、「The Cureが『Adore』(1998)を再構築したような感じ」な本作だが、この空気感、人によっては多分古臭く感じるかも。ビリーのメロディラインの癖とメランコリックな雰囲気はしっかりスマパンのそれではあるけど、何で今更これ?って感じで。

このアルバムも曲数が多いのと長いのでちゃんと聴き込めてはいないんだけど、てかえっ、このアルバムSumerian Recordsから出てんの?Sumerianってあのスメリアン?あらまぁ何でまた。謎。

 

 

 

 

 

 

YUNGBLUD - Weird!

 

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12月4日リリース。イギリス出身のシンガーソングライターYUNGBLUDの2作目のフルアルバム。

前作『21st Century Liability』(2018)から2年振り。同作のレビューでも書いたが、まぁ何かと目に付く奇抜な立ち振舞いから「なんかまたキワモノっぽいのが出てきたなぁ」とか「一発屋で終わりそうだなぁ」とか、正直第一印象は全然良くなかったんだけど、いざ聴いてみると結構しっかり手の込んだ音楽を作ってらっしゃるお方である、この子。

1stアルバムでは基本打ち込みを中心としたサウンドで、いかにもPro Toolsだけで作りました感が強かった。レゲエをベースにしたエレクトロなリズムトラックは、強烈な密室感とアングラ臭を放っていたんだけれど、今回のアルバムでは一転してバンドサウンドを中心に制作。今まで打ち込みに頼っていた部分もちゃんと楽器使って演奏する事で、それだけで楽曲のレンジが一気に広がっている。またメロディや歌詞は前作より確信に満ちており、現代版ロンドンパンクのようなサウンドに乗っかって、その立ち振舞いはよりデンジャラスさを増している。そしてこんなにキワモノじみた姿をしているのに、何故か「自分の中にも実はこんな奴いたりして…」という奇妙なシンパシーを若者達に与えている。大袈裟な言い方をすれば、時代の歪みが生み出したモンスター、それこそがドミニク・ハリソンという男が「YUNGBLUD」という偶像に投影しているものなのかもしれない、なんてね。

 

 

 

 

 

Paul McCartney - McCartney Ⅲ

 

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12月18日リリース。ポール・マッカートニー大先生の…えっと、あれ、何枚目?あ、18枚目?のアルバム。思ったより少なかった、勝手にもう30枚くらい出してるもんかと勘違いしてた。

「ロックダウンで暇だから宅録でアルバム作った」なんてのはもはや珍しくも何ともなくなったけど、それを78歳のおじいちゃん、しかも元ビートルズがやったとなると話は別である。しかも「みんな家にいろよ!家でもロックは出来るからね!まさに"ROCKDOWN"じゃ!」とか言っちゃって、完全楽しんでんじゃんこの人。

ツアーもフェスもメディア対応も無くなった事を絶好の機会と捉えたポール、自宅スタジオに籠ってひたすら思いつくままに曲を作ってはレコーディングし、気付いたら曲数が溜まってきたのでじゃあアルバムにしよう、タイトルは…まぁ今回また全部自分でやったし、「McCartney Ⅲ」でいいか、という具合。従ってごく一部を除きほぼ全てのパートがポールによる演奏。その発想も行動力も全て、78歳のおじいちゃんが普通やるような事じゃない。ホントに若いなぁポール…なんて感心してしまった。おまけに31年振りの全英1位獲得という素晴らしいおまけ付き。

内容自体は所謂「マッカートニーシリーズ」の流れを踏襲したもので、宅録故の密室感とオーガニックさを重視した、良い意味で飾り気のないもの。ソングライティング面でも脱力感と自由さが目立つ。まぁ純粋に歴代ポール作品と比べるとぶっちゃけ他にも良い曲はあるかもだけど、このタイミングでこういう世の中になってしまったからこそ聴けた音楽ではある。

ちなみにこのアルバム、Apple Musicで表示すると、ジャケットのサイコロがクルクル回っている。初めてサブスクならではのお得感を感じた。

 

 

 

 

…2021年も既に楽しみな新譜が多い。とりあえずFoo Fightersの新作がもうすぐ出るから、今はまずそれを楽しみにしたい。

 

 

【好きなアルバムについて語る】Smashing Pumpkins - Machina : The Machines Of God

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2000年リリース、アメリカ・シカゴのオルタナティヴロックバンドSmashing Pumpkinsの5枚目のスタジオアルバム。本作を以てバンドは一度解散したため、1つの区切りとなる作品のはずなのだが、スマパンディスコグラフィの中ではどういう訳か影の薄い扱いをされている。まぁでもそれも別に無理のない話で、ここまで出してきたアルバムが全部個性的でそれぞれ違った魅力を持ったものばかりだし、売上もモンスター級という背景なのもあって、結果的に正直取っ付きづらい立ち位置に落ち着いてしまっているのである。確かにスマパン知らない人に勧めるアルバムって言えば未だに『Siamese Dream』(1993)か、『Mellon Collie And The Infinite Sadness』(1995)のどちらかで、その次が『Gish』(1991)か『Adore』(1998)なので、消去法的に優先順位は一番最後となり、それが結局「一見さんお断り」な印象を与えてしまう。理不尽だよなこれ。

まぁ「埋もれた名作」という事で紹介したい。

 

Smashing Pumpkins、通称スマパンと言えば、90年代オルタナティヴロックを代表するバンドである。日本国内での人気・知名度だけで言えば、ヘタしたらNirvanaの次くらいあるんじゃないの?って感じたり感じなかったり。多分UKブリットポップ勢との混合戦にすると、NirvanaOasisが熾烈なトップ争いしてて、その後ろでBlurRadioheadスマパンら辺が2番手争いをしてるイメージ。スマパンってオルタナって呼ばれる割に曲自体は意外とポップなので、日本人の間で強烈に好き嫌いの分かれるグランジオルタナバンド達の中でも割と人気のある方じゃねぇのかなぁ、というのは勝手な印象。まぁでも悲しいかな、90年代米オルタナって、日本国内ではRed Hot Chili PeppersFoo FightersRage Against The Machineみたいな、「特別枠」な方々がめっちゃ人気出ちゃってる一方、Pearl Jam始め「王道枠」な方々はNirvana以外は全然人気ないというちょっと気まずい感じなのでアレだけど。この辺は以前書いたGarbageのレビューにも少し書いたけど。

 

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Smashing Pumpkinsのバイオグラフィを纏めると、主に3つに分ける事が出来る。デビューから2000年の解散までを第1期、2005年の再結成から2018年までのビリーによるワンマン体制を第2期、2018年のジミー・チェンバレン(Dr.)とジェームズ・イハ(Gt.)再加入によるリユニオン以降〜現在を第3期、という具合である。本作『Machina : The Machines Of God』は、ここでいう第1期の最後にリリースされたアルバムで、内容的にも当時のスマパンの集大成を記録したものとなっている。にも関わらずここまで影が薄い扱いをされているのは、前々作『Mellon Collie〜』が内容・売上双方の面で代表作過ぎるのと、対して前作『Adore』が商業的に大失敗した、というインパクト大な事実がある為であり、結果スマパンのキャリア自体に、要するに「従来路線を続けときゃ良かったものを無理に冒険した結果大ゴケし、そのままフェードアウトしていった」という印象を与えてしまい、フェードアウトする寸前のアルバムという事でスルー或いは後回しにされがち、という事なのだと思う。 何て不名誉な話だって感じ。まぁ上の事実も決して間違ってるわけでは無いし、こういう前後関係や背景のせいで正当に評価されていないアルバムがあるというのは、残念ながら珍しい話ではない。

 

従来のギター中心のサウンドを捨て、打ち込みなどを多用したニューウェイヴ風路線を打ち出した『Adore』(1998)が商業的大敗を喫したスマパン。当時既にオルタナシーン自体の失速・影響力低下が進んでいた状況で、ビリーはバンドの解散を決断する。当時同じように時代の煽りを喰らっていたPearl JamNine Inch Nailsが、「もう何でもいいやー、これから好き勝手やりまーす」と開き直った上で活動継続を選択したのとは対照的だった。

一応言っておくとこの『Adore』、商業的に失敗しただけで評論家からはポジティブな反応だったので、アルバム1枚の売上不振だけで解散を決断するというのは正直かなり極端な選択とも言える。だがビリー・コーガンカート・コバーン亡き後、オルタナシーンが次のリーダーを求める中で自ら積極的に手を挙げていた人物でもあった為、オルタナ的姿勢を体現した『Adore』の商業的失敗は、言わばオルタナ代表としての敗北を意味し、彼の戦意を喪失されるには十分以上だった。

 

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Smashing Pumpkins自体はグランジオルタナの波に乗ってデビューしてはいるが、シーン発祥の地であるシアトルとは特に縁もゆかりも無いバンドである(一応Sub Popからシングルを出した事はあるらしいけど、それだけ)。音楽的ルーツにしても、シアトル勢がほぼ100%通っているBlack Sabbathはまぁギリ通っているけど、70〜80年代パンク・ハードコアなどは殆ど通っていないし(むしろ嫌っていたとも言われている)、どちらかと言えばCheap Trickのような大衆的でメロディアスな音楽や、The Cureのような耽美性あるサウンドなどに影響を受けている為、シアトル勢との共通項目はあまり無い。アーティストとしてのアティチュードにしても、シアトル勢の持つ徹底したアンチ商業主義的スタイルは当然抱いていたものの、彼の場合それを上回るほどの承認欲求・成功願望を抱いてバンドをやっていたように見える。その欲求の強さ故に、『Siamese Dream』制作時はドラマーのジミー以外のメンバーをスタジオから締め出してドラム以外全て自分で演奏し、ミキシングルームではプロデューサーのブッチ・ヴィグとばかりやり取りしていた程。勿論音楽的にはアンチ商業主義的スタイルを貫き、決して大衆に媚びるような事は一切無かったスマパンだが、ビリーにとってはそれと同じくらい、多くの人に評価される=売れるという事が重要だったのだ(それ故に何かと批判もされたのだが)

音楽的ルーツだけでなく、成功への解釈や向き合い方もシアトル勢とは違うものを抱いていたビリー、もしかしたらカート死後にオルタナ次期リーダーに立候補した際も「シアトル勢は今やオルタナのオールドウェイヴだ、俺達がオルタナのニューウェイヴになってやる」などと本気で思ってたのかもしれない。確かに当時のシアトル勢オルタナバンドの多くは、自ら課した制約によって自家中毒に陥り始めていたので、それを横目にビリーも何か思う所があったとしても不思議ではない。

 

そして、次期リーダーとしての強い自覚を以て、ビリーは他メンバーと共に1995年に2枚組『Mellon Collie And Infinite Sadness』を生み出す。自己模倣の否定と、形骸化し始めていたオルタナからの更なる脱却を目指した音楽性、商業性を伴わぬ内容と2枚組というパッケージにも関わらず、最終的に全世界で1000万枚近くを売り上げ、音楽賞も数多く受賞。名実共にオルタナのリーダーに相応しい仕事を見事成し遂げる。同時に自ら渇望する「評価」を、「成功」という最も望む形で掴み取った。

 

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だが世間が彼等に、オルタナに味方したのはここまでだった。ドラッグ問題で逮捕されたドラマーのジミーを解雇した後、ドラマー不在という事実を逆手に取り、引き続きオルタナのリーダーらしく、新規軸を打ち出した次作『Adore』は、なんとアメリカ本国で20万枚にも届かない(あくまで最初だけだけどね。今は再評価が進んでもっと売れてるけど)という大失敗に終わってしまう。だがこの逆境に苦しんだのはスマパンだけではなく、翌1999年にはNine Inch Nailsが大作『The Fragile』を何とかチャート1位に送り込むも、僅か1週間足らずで圏外へと弾き出されている。ちなみに1998年という年は、Kornが3rdアルバム『Follow The Leader』をUSビルボード1位に送り込み、新勢力ニューメタルの先導者としてシーンでの支配力を強め始めた年でもあった。この結果を前に、時代はもう自分達だけでは抗いきれない程変化してしまった事を悟ったビリーは、終わりゆくオルタナティヴムーヴメントと運命を共にするかの如く、バンドの解散を決意する。それを踏まえた上で、Adore制作前に解雇されていたジミーを再び招聘し、今作『Machina : The Machines Of God』に着手するのであった。

 

当然ながら、当時は後に再結成するなんて(恐らく)微塵にも思っていなかった彼等、本作をSmashing Pumpkinsの最終到達地点として刻むべく、『Gish』から『Adore』までで培ったあらゆるノウハウを注ぎ込む。既にメンバー間の人間関係はかなり悪化していたようだが、「最後のアルバム」という明確な共通認識の元に団結、アルバム制作は進んでいく。最後の最後でダーシー・レッキー(Ba.)が突然脱退するという事態に見舞われるものの、元Holeのベーシスト、メリッサ・オフ・ダ・マーの力を借りつつアルバムは完成。ノイジーなギターサウンドあり、ニューウェイヴ風のダークかつドリーミーな空気感あり、そしてメランコリックなメロディラインありと、Smashing Pumpkinsというバンドがこれまでに見せた個性という個性があらゆる形で花開き、バンドの足跡を彩ると同時に、それらが上手くコラージュされながら、最終的に今までのどの作品とも違う、唯一無二の世界観を形作るに至った。

バンドのキャリアの集大成として作られたこのアルバムは、同時にバンドの墓標ともなった。2000年、彼等はアルバム発表の後に正式にバンド解散を発表し、終わりゆく時代への最後の挨拶としてワールドツアーを敢行。ツアー最終公演として、初ライブを行ったシカゴのライブハウス「メトロ」に立ち、解散していった。彼等の出来うる最も美しい形で、Smashing Pumpkinsはその歴史に終止符を打ったのだった。

 

90年代という時代を戦い抜いたバンドが、最後に行き着いた姿がこのアルバムには刻まれている。同時に、Pearl Jamの『Yield』(1998)や、Red Hot Chili Peppersの『Californication』(1999)などと並び、1990年代という波乱の時代の終わりを象徴するような作品となっている。

聞いたこと無いけど「史上最も過小評価されているラストアルバム」みたいなランキングって無いのかなぁ。多分あると思うけど、もしこのランキング自分が作るとしたら絶対ランクインさせる。何位にするかは分からないけど。

でも今となってはラストアルバムじゃなくなっちゃったもんなぁ。ここまでのそういう複雑な背景込みで、個人的に思い入れのある1枚である。

 

ちなみに、本作には実は続編があり、その名も『Machina Ⅱ : The Friends And Enemies Of Modern Music』という、25曲入りというなかなかのボリュームの1作なのだが、本日に至るまで正式リリースされていないという曰く付き?な作品となっている。

というのも、当初『Machina』との2枚組構想や、2部作構想などがされていたようだが、レーベルが発売に興味を示さなかった為、アナログ盤が25組のみプレスされ、ビリーの近しい友人に配られた後、彼等の手によってネット上にアップロードされる事で世に出た、というこれまたクセのあるエピソードを持つ。

これについても詳しくは、また改めて書きたいと思う。いつになるか分からないけど。

 

 

【好きなアルバムについて語る】Noel Gallagher's High Flying Birds - Chasing Yesterday

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OasisのNoel Gallagher率いるバンド、Noel Gallagher's High Flying Birdsの2ndアルバム。Oasis初心者の人は、「お兄ちゃんの方」或いは「たまにしか歌わない方」などで覚えて頂ければOK。ちなみに「弟の方」「普段歌ってた方」がリアム。まぁ言わんでも分かるか。

リリースは2015年。1stアルバムが2011年なので実に4年ぶりなのだけど、本作以降かなりハイペースに作品をリリースしていくノエル、これが現時点で最長のリリースブランクになっている。まぁでも本当ならこの4年の間のどこかでAmorphous Androgynousとのコラボアルバムを出す筈だったので(後に殆どがお蔵入り)、別にこの時だけ休んでたワケではない。そう考えると実質3年か。それに普通にツアーやらフェス出演やらで世界中飛び回ってたし。

ちなみにこのNoel Gallagher's High Flying Birds、ノエルが「Peter Green's Fleetwood Macみたいな名前にしたいなぁ」と考えていた時に、Jefferson Airplaneの「High Flying Bird」という曲から取って付けた名前らしいが、「バンド」として扱うべきなのか、「ソロプロジェクト」とすべきなのか、未だによく分からない。誰か教えて下さい。

 

2009年8月に壮大な兄弟喧嘩の末Oasisを脱退、バンドの歴史に終止符を打ったノエル。その後リアム始め残されたOasisメンバー達が「Oasisよりビッグになる」という宣言と共にBeady Eyeを結成する一方で、ノエルは以前から興味を持っていたとされるソロ活動への準備を始める。元々自分1人で曲を書いて、歌詞も書いて、たまに自分自身で歌ったりしつつ、アレンジ面のイニシアティヴも全部執ってたノエル。彼に言わせれば演奏を頼む人間がOasisではなくなったというだけで、今までとやってる事を何一つ変える必要は無いし、しかもリアムという扱い辛いトラブルメーカーもいないわけで、正直ようやく好き勝手が出来る環境を手に入れた、という事なのかもしれない。

ノエルがソロやりたがってる説、みたいなのは以前からずっとあって、噂が出る度に本人或いはバンド側が否定してきたわけだけど、実際はある程度の成功が見込めるならぶっちゃけソロ、或いは完全自分中心のバンド新しく組めた方が全然楽なんだけどなぁ、と本人も心のどこかで思っていた筈である。それに、もはや1ロックバンドの域を超え、The Rolling Stonesよろしく巨大ビジネスになりつつあったOasisでは、音楽的な冒険というのもやり辛い。バンドがビッグになればなる程関わる人間の数も増えていき、当然その人達全員食いっぱぐれないようにしなくてはならない。従来と違う作風を押し出して万が一商業的に失敗などしてしまっては只事では無くなってしまう。結果確実な売上が見込める「Oasisっぽい曲」の拡大再生産をずーっと強いられる事となる。制作の自由度、そして100%自分のコントロール下にも置けないバンドメンバー達(例えOasisとは言え、純粋な演奏能力・音楽的素養という面だけ見れば正直もっと上な人はゴロゴロいる)、しかもボーカルは最悪な程にクセの強いトラブルメーカーだ、となれば、当然ながらノエルとしては窮屈になるわけで。

…っていうのが少なからずあった故の、Oasis脱退だったんだと思う。人間、堪忍袋の緒が切れる要因というのは実はそんな大きなものでは無くて、日々溜まってきた鬱憤がある瞬間に臨界点を超え、そこでプツンと切れてしまうものだ。多分そういうのが無かったら、これもいつも通りの一時の兄弟喧嘩で終わっていた筈だ。だが今回だけは、事情が違った。

 

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まぁ本人としてもこんな事で本当にOasisが解散するとは思ってなかったんだろうが、「もうこうなったら今後ソロでやるしかないよね」という状況に追い込まれたノエル。いざ動き始めてみると、思いの外準備はスムーズに進んでいく。というかむしろ、Oasis時代のストレスフルな縛りや制約など一切ない環境を図らずも手に入れる事が出来た為、今までにない程ノビノビと制作に励む事となる。確かに元Oasisって肩書きは一生残る事になるけど、ソロキャリアとしては前歴が無いわけで、好きなことやるなら今しかない、逆にここでやらなければ一生出来ないかもしれないぞ、という状況なのもあって、ノエルの脱Oasis化は急ピッチで進む。メンバーも腕利きのミュージシャンに頼もう、決してビッグネームな奴なんかいないけど、ノエルの意向を汲み取って演奏に変換する能力はOasisメンバーを遥かに凌ぐ連中だ。そんな中で曲が出揃い、レコーディングが進む中で、Oasisへの未練も気付けば完全に消え失せていた。「やべぇ、ソロめっちゃ楽しいじゃん」とでも言いたげな勢いである。

そうして出来上がったソロ1stアルバム『Noel Gallagher's High Flying Birds』(2011)は、メロディラインはノエル節全開ながら、ルーツミュージックへ大きく接近して見せるなど、Oasis色を殆ど感じさせない仕上がりであった。その後Amorphous Androgynousとコラボしてより前衛的な作風にトライするなど、ノエルは型に嵌まらないスタイルで次々と活動を繰り広げていく。同時期にリリースされた、弟リアムが元Oasisの残党達と結成したBeady Eyeの1stアルバムが、結果的にOasis劣化コピーで終わったのとは対照的だった。まぁ15年近くイギリスのヒットチャート支えてたような兄貴と、曲作った事無いわけじゃない程度の弟陣営じゃ、そりゃあクオリティに差が出るのは当たり前だわな。

 

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さて、そんな感じで弟とは違ってあっさりOasisの残像を消し去る事に成功した兄貴。本作『Chasing Yesterday』は実質3年間という、High Flying Birds史上現時点で最も長い制作期間を経てリリースされている。ちなみにその間、弟陣営Beady Eyeは2ndアルバムの失敗の後に2014年にあっさり解散してたりするけど、兄貴はそんな事全力スルーで曲作りに勤しんでいた。

以降リリーススパンがどんどん短くなっていくノエルだが、本作リリースまで何故ここまで長くなったのかは、正確な理由は分からない。制作中のインタビューやSNSへの投稿では「作ってるよ〜まだ出さないけどね」とはぐらかすようなコメントも出しつつ、2015年にようやく2ndアルバム『Chasing Yesterday』は完成、世に放たれた。

あれだけ時間を掛けていたのだから、我々の想像の斜め上に再びノエル兄貴は突き抜けていくのだろうか、なんて予想したら開けてびっくり、どういうわけか再びギターを全面に押し出した王道UKロック路線…それこそOasisを彷彿とさせるような路線へと回帰してみせた。勿論1stで見せたルーツミュージック的空気感の楽曲も、次回作以降ノエルが傾倒していくダンスミュージック的4つ打ちビートをフィーチャーした楽曲もあるのだが、失礼な話「Oasisの未発表曲集ですよ」て言われたら多分騙されてた。せっかく「元Oasis」なレッテルを剥ぎ取れたと思ったのに、なんか自分でまた貼り直してないかこの人。…ってこんな散々な風に書いたけど、「Riverman」「The Dying Of The Light」などで聴けるような控えめながら哀愁に満ちた独特のメロディラインと、少しスモーキーかつウエットな空気感だったり、或いは「Lock All The Doors」「You Know We Can't Go Back」などで聴ける軽快にギターの踊るロックサウンドだったり、メッセージ性があるんだか無いんだかイマイチ掴めない歌詞だったりは、Oasisの頃から皆のよく知る「Noel Gallagher」節全開であり、安心して聴くことが出来る。真新しさは無いが、普通に良い。そんな曲ばかりだ。

 

さて、何故敢えてOasis期の作風に回帰するようなアルバムに「Chasing Yesterday (=昨日を追いかけて)」なんてタイトルを付けて世に出したのか。正確な理由は分からないけれども、前述のAmorphous Androgynousとのコラボも一因なのではないかと予想してみる。

なんの制約も無く音楽を作れる環境を手に入れ、その環境を全力で謳歌しながら作った1stアルバムと、その勢いのまま「もっと違う事やってみよう」とThe Future Sound Of Londonとのコラボ企画が持ち上がり、Noel Gallagher's High Flying Birds × Amorphous Androgynousとしてアルバムを作ったものの、あまりに勢い任せに冒険し過ぎた結果、次の目標地点を見失ってしまった可能性はある。結局このコラボも18曲ほど作られたようだが殆どがお蔵入りしており、最終的に世に出たのは『Songs From The Great White North』という4曲入りEPのみ。ちなみにこの時作られたコラボ曲、何曲かはサブスク或いはYouTubeなどで聴くことが出来、後の3rdアルバム『Who Built The Moon?』(2017)以降の音楽性へのヒントを感じられる仕上がりではあるが、同時に『Modernism: A New Decade』がお蔵入りにされた頃のThe Style Council、というかPaul Wellerとちょっとカブる何かを感じたりもする。良く捉えれば初期衝動や好奇心に忠実なんだけど、悪く言えば未整理な、方向性の定まらないものだった。

そういった反省も踏まえて、次のアルバムは勢いに任せず、自然体でじっくり作ろう、多少時間が掛かっても納得いく作品にしよう、という意識を強く持った上で制作に臨み、その結果のリリースブランク3年、出来上がったアルバムも昔ながらのノエルらしい楽曲が並んだという事なんじゃないかなぁ、と邪推してみる。セルフプロデュースという選択も、一旦自分の真ん中を見つめ直す為に必要なものだったのだろう。そして今作で真ん中に再び焦点を当て直し、ここでAmorphous Androgynousとのコラボで得たインスパイアをもう一度引っ張り出し、改めて整理した上で次作『Who Built The Moon?』へと帰結させていった、というのが事の顛末だったのでは、と予想。

 

という事で、個人的にはこのアルバム、ノエルの音楽的変遷における、「振り出しに戻る」的な1枚と捉えている。

ちなみに、このアルバムを出した辺りから、High Flying Birdsにもゲム・アーチャー(Gt.)やクリス・シャーロック(Dr.)ら元Oasisメンバーが少しずつ再合流していく。Beady Eyeが空中分解後、「すみませんでした、兄貴」みたいな風に言って入れてもらったのかな。だとしたら弟リアムはプライドズタズタだよなぁ、とかいう変な想像をしたりしたけど、そのリアムも今やグレッグ・カースティンらの力を借りて完全復活した訳だし、終わり良ければ全て良しという事で。

【好きなアルバムについて語る】FIVE NEW OLD - Too Much Is Never Enough

 

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2018年リリース、日本は兵庫県神戸市出身のロックバンドFIVE NEW OLDの通算2枚目、メジャー1枚目のフルアルバム。結成8年目にして満を持してのメジャーでのアルバムリリースとなった。しかもレーベルはToy's Factory。当時は結構驚いた記憶がある。だがToy's在籍中も、かつて所属していたTWILIGHT RECORDSは何かしらで引き続き関わっているのか、色んなところでクレジットされている。現在はWarner Music系にレーベル・マネジメント共に移籍したようだけど、えっ何今度HIROSHIくんドラマ出んの、えっ?そっち方面攻める感じ?おやまぁどうなる事やら。

 

今でこそオシャレなアーバンポップサウンドを鳴らしているけれども、元々は前述の通りTWILIGHT RECORDS所属であり、初期はそれはもう爽快なポップパンクを鳴らすバンドだったFIVE NEW OLD。特にHIROSHI氏(Vo.)の英語発音が非常にネイティヴであるという点から、音楽の完成度も含めて外タレ度数の高いバンドとして注目されていた。逆に言えば当時のこの界隈のバンド、みんな英語歌詞で歌うくせに殆どが英語ヘタクソだった、という事なのかな、今思うと…。まぁそういう事指摘するの殆どが洋楽リスナー(しかも邦画ディスりがちな奴等)ばっかりだし、あんま気にしてもしょうがないけどね、だってハイスタがあのカタカナ英語でOKなんだもん。

…話が逸れた。ちなみに私の知り合いでもSuchmos以降のシティポップリバイバルの流れで「Ghost In My Place」を聴いて彼等を知った人は多かったが、そういう人達の大半が、そこから過去の曲を掘り下げた途端戸惑っていた。まぁでも、昔と今とでサウンドが全然違うなんてのはパンク・ラウド系バンドにおいては別に珍しい話ではない。あのワンオクだって初期と今じゃ全く別バンドだし。

 

バンド結成は2010年。ONE OK ROCKが「完全感覚Dreamer」をリリースしたのが実はこの年。以降FACTを筆頭にFear, and Loathing in Las Vegasやcoldrain、SiMやHEY-SMITHCrossfaithらが続き、ラウドロックやパンク・ハードコアシーンにスポットライトが当たるようになり、有力バンドの多くがメジャーへ進出、その下でもインディーズレーベルが乱立、数多くのバンドを青田買いの如くデビューさせていく事となる。そんな流れがライブハウスシーンに出来ていた為か、FIVE NEW OLDも結成からそう時間を置かずにインディーズデビューを果たしており、初の全国流通盤が出たのが2012年。その頃から既に「ボーカルの英語がめちゃくちゃ上手いポップパンクバンドがいる」として話題になっていた。しかもHIROSHI氏、帰国子女でも何でもなく、完全独学で英語を身に付けたという点も関係者を驚かせていた。

だがしかし、当時のアンダーグラウンドシーンでは、従来メロコアシーンと、新興勢力としてのスクリーモメタルコアシーンが隆盛を極める中、FIVE NEW OLDのようなポップパンクバンドにはどちらにも居場所が無かった。というのも現状のシーン内に居場所を求めようにも、スクリーモなどのラウド相手では刺激も迫力も不足していたし、メロコアシーンに乗り込もうにも、あらゆる亜種すらも排斥する程保守的に凝り固まったメロコアファン相手からは強烈に拒絶されるし、それじゃあ歌モノ系と対バンしよう…としても、今度はそういったバンド達よりは激しすぎて結果相容れない、という具合だったのだ。確かにポップパンクは数としては存在していたのだが、1つのシーンを形成出来る程の勢力を持つまでには至っておらず、結果このような肩身の狭い思いを強いられていたのである。こういう「シーンの垣根」というのは、ある程度売れてしまえば全く問題にならないが、地下のシーンにおいては未だ根強く残っていた。

それじゃあ、他のシーンでも闘えるよう音楽性をマイナーチェンジさせれば良いんじゃないの?というのも考えたものの、そもそもポップパンクというジャンル、どのパラメーターも5段階中3くらいで揃っているので、他ジャンルと比較しても秀でている点も劣っている点も特段無い為、逆にどこかを伸ばすにしても補うにしても非常に難しい、要するに拡張性という点では非常に低い音楽なのである。結果的には誰にでも取っ付きやすくはあるんだろうけど、ハマりやすさも弱い。未だ日本でポップパンクが今ひとつ市民権を獲得し切れない所以はこういう所にあるのではないかと個人的には思っている。まぁそうだよね、「ポップ」と「パンク」って元はと言えば真逆のベクトルで始まってるワケだし、酸性とアルカリ性混ぜたら中性になっちゃうのと同じで、結果どちらの良さも中途半端になってしまっている感は正直あるし。…ってこんなに書くとポップパンク好きの人にボコボコにされそうだけど。

 

そんなこんなで、TWILIGHT RECORDSとの契約を掴み取り、All Time Lowなど海外バンドの前座を務めたりする機会はあったものの、シーンの居場所も飛躍のきっかけも今ひとつ掴めないFIVE NEW OLD、上に書いた事と同じ事を考えたのか現状の音楽性にも限界を感じ始め、徐々にポップパンク以外の音楽への模索を始める。そうした中で、パンク・ラウドシーンが盛り下がりを見せていた事もあって、バンドはよりコンテンポラリーな、メロディとグルーヴ感を重視した音楽性へと興味を寄せていく。この辺りの変遷は、かつてThe Jamとしてパンクから出発するも行き詰まりを感じてThe Style Council結成に走ったPaul Wellerと被る(メンバーもインタビューでThe Style Councilへ言及した事がある)し、他ジャンルを貪欲に飲み込み続けた結果パンクとは全く違う姿に変貌したFall Out BoyPanic! At The Discoのような現代のバンドとも共通している。それに元々パンクをやるにしてはちょっと優等生過ぎた感のあった彼等、最初はそういうのに憧れてTHRASHERとか着てみたけど、やっぱ似合ってないのかなぁ、結局普通にユニクロとかの方がしっくり来ちゃうんだよなぁ、みたいな事を考え始めていた頃だった。

そんな試行錯誤を分かりやすく反映した、雑多な音楽性を披露した2015年リリースの1stフルアルバム『Lisle's Neon』に収録されたシングル「Hole」にて、当時国内でシティポップ・リバイバルが起きていた事もあって、試しにそっち方面に思いっきり寄せてみた結果、これがメンバーにとっても会心の出来だったようで、以降バンドはよりスタイリッシュかつコンテンポラリーな、従来のパンキッシュさとは距離を置いた方向へと急速に舵を切る。そして『Ghost In My Place E.P.』(2016)、『Wide Awake E.P.』(2017)の2作で、The 1975をBabyfaceで割ったようなアーバンコンテンポラリーなサウンドスタイルを確立。前述のシティポップブームの後押しもあって、そのまま一気にメジャーデビューまで駆け抜けて行く事となった。

 

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かくしてポップパンクバンドから、オシャレなアーバンコンテンポラリーなバンドへと華麗な(?)転身を遂げ、念願のメジャーデビューまで果たしたFIVE NEW OLD。遂にメジャー1発目のフルアルバム『Too Much Is Never Enough』をリリースする。ここまで全部前振り。

ポップパンクからの音楽性拡張にあたって様々な音楽的要素を取り入れてきた彼等だったが、本作はそういった流れを総括しつつここでひと息入れたような仕上がり。新たな試みを取り入れる事は敢えてせず、ここまで培ったノウハウをシンプルに活かす事に専念している。

メジャーデビューに伴いシティポップバンドとして紹介され、大衆にもそのように認知されているFIVE NEW OLDだが、このアルバムの印象としては、全体をホワイトファンクをベースとしたハイファイかつオーガニックなコンテンポラリーサウンドを中心として纏め、所々に多様なタイプの楽曲をポツポツと配置するという構成となっており、所謂シティポップの王道からはかなり外れた場所に着地している。理由としてはHIROSHI氏のネイティヴな英語歌唱とより洋楽的なメロディラインだけでなく、「敢えてブラックミュージック感を脱臭させた」点が大きい。

 

シティポップという音楽は、それこそはっぴぃえんどや山下達郎もそうだったけど、海外のAORもしくはブラックミュージックへのコンプレックスというのがどうしても滲み出る。このコンプレックスは、SuchmosとかNulbarichなどの2010年代リバイバル勢のサウンドにも強烈に滲み出ており、結果的に日本人とか白人含め「アフリカ系じゃない人」がブラックミュージックを志向しようとするとどうしてもこうなってしまうらしい。まぁこれは70年代以降のブルーアイドソウルとかでも言える話であって、前述のPaul Wellerや、一時期のDavid Bowieなんかもそんな感じだった。ただ肌の色が違うだけなのに、何なんだろうね、この差って。

結果的にはそういった海外産の音楽に日本人ならではの歌謡曲風メロディと日本語歌詞という組み合わせの、決して混ざってるわけじゃないんだけどミスマッチとも言い切れない絶妙な感触が、偶発的にシティポップという名称で流行し(バブル景気やカフェ・バー文化の流行によってオシャレな音楽への需要が高まった点も後押しとなった)リバイバルを経て今では普遍的ジャンルとして定着しているわけなんだけれども、より「本物感」「黒さ」を追求していくとやっぱりちょっと物足りなさが出てくる。まぁ仕方ないんだけどねそれは。それにその「物足りなさ」が要するに「味」になったからこそジャンルとして確立されたワケだし。

FIVE NEW OLDは、コンテンポラリーサウンドに敢えて少しUK的ウェットさを加える、または敢えてブルーアイドソウルなどの「白人による黒人音楽の模倣」を模倣する事で「エセブラックミュージック感」を強烈に脱臭・希釈している。日本語歌詞を一切歌わない点も手伝って、結果的に他のシティポップバンドとは違った質感を手に入れる事にも成功した。まぁ元々照準として合わせていたのがそこでは無かったんだろうけど、周りがカラッとさせたがる所を敢えてウェットに持っていく、黒っぽくしようとする所を敢えて白っぽくする、という真逆のアプローチが功を奏した。

ちょっとアレな言い方をすると、よりモダンなサウンドを追求した結果、バンドサウンドは良くも悪くも特徴が無くなっている為、SuchmosやNulbarichのようにギター小僧が食いつくようなポイントは無くなっているけれど、同じとこ狙ったってしょうがないわけで。そもそも俺らシティポップ目指してないし、とでも言いたげな立ち振舞いには、僅かながらパンクの匂いを感じたりもする。

 

本作以降も彼等の音楽性拡張は続いていくわけなのだが、その決意表明は目立たないながらしっかりアルバムに刻まれている。

ポップパンクから遠く離れながらも新たな音楽を追求し、唯一無二の何かになろうともがく姿は、反語的にパンクそのものである、という手垢だらけの定型文で今回は締め括ってみる。

 

 

【好きなアルバムについて語る】Feeder - Pushing The Senses

 

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2005年リリースの、イギリスのロックバンドFeederの5枚目のスタジオアルバム。サウンドスタイルを全く反映していない意味不明なジャケットデザインが目を引くが、デビュー〜2000年代くらいまでのFeederの作品は正直どれもそんな感じである(最近は割と分かりやすい感じで纏まっている傾向にあるけど)。デザイナー誰なんだろ、と思って軽く調べてみたけどよく分からなかった。

このFeederというバンド、出会ってもう10年以上愛聴し続けているんだけど、こうしてディスクレビューみたいな形で文章化した事は殆ど無かった。昔mixiのレビューに1枚か2枚投稿したような記憶がうっすらあるけど定かではないし、mixiを今更開いても色々と辛くなるだけなのでわざわざ確かめようとも思わないが。てかアカウント残ってんのかな?

ちなみにこのアルバム、Apple Musicでは何故かベストアルバム扱いされている為、アルバム一覧には出てこない。そのくせBサイド集の『Picture Of Perfect Youth』はオリジナルアルバム扱い。何だこれ。サブスクってこういう細かいトコ雑だよな。いや俺が気にし過ぎなだけか。

 

前作『Comfort in Sound』(2002)から約3年振り。その前にバンドは初代ドラマーのジョン・ヘンリー・リーを喪うという悲劇に見舞われており、同作含め今作『Pushing The Senses』はその悲しみの只中で制作されている為、サウンドスタイルもそういった感情が多分に反映されている。その一方で活動ペースとしては以前と変わらず、もしくは以前よりアクティブにすらなっており、ジョンの死が2002年の1月なのにも関わらず『Comfort in Sound』のリリースは同年の10月、2003年には2度目のKerrang! Awards受賞、2004年も今作『Pushing The Senses』の制作にほぼ全て充てている、と言った具合である。メンバーの死(自殺だった。やりきれないよな)という悲劇の中、彼等は止まる事ではなく進み続ける事でその悲しみを癒そうとしたのであろう。また活動継続にあたってはジョンの遺族からの説得があったとも言われている。

 

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地元ウェールズやロンドンなどで音楽活動をしていたグラント・ニコラス(Vo.Gt.)とジョン・ヘンリー・リー(Dr.)の2名が、当時組んでいたバンド「Real」解散後の活動を模索していた際に、Loot誌上のバンドメンバー募集広告でタカ・ヒロセ(Ba.)と出会い、結成されたのがFeederである。ちなみにこれ、「タカが出した募集広告にグラントとジョンが反応した」説と、「グラントとジョンの出した募集にタカが応募した」の2つの説があるらしい。まぁ、正直どっちでも良い話だけど。

Feederが結成された1994年という年は、イギリスにおいてブリットポップ黎明期に当たる。Blurの『Parklife』が出たのもこの年だし、Oasisがデビューを飾ったのも同年である。その前の、ブリットポップのプロトタイプとも呼べる「マッドチェスター」期から、「イギリスらしいロックの復興」というのがイギリス国内で強く求められるようになり、またカート・コバーン(Nirvana)の死によって米グランジオルタナのイギリス国内での影響力が急激に落ちた事も相まって、BlurOasis両バンド共好意的にシーンに受け入れられ、気付けばこの2バンドを筆頭に様々なバンドが出現、誰が付けたかも分からない「ブリットポップ」という呼称でイギリスのシーンを席巻するムーブメントへ発展していく。そんでもって翌1995年にはもう、もはや伝説となったあの「OasisBlurシングル対決」まで行っちゃうんだからなぁ。展開が早過ぎるって、いくらなんでも。

さてイギリス国内がそんな状況だったもんで、「UK版Smashing Pumpkins」と呼ばれる程のヘヴィかつノイジーなギターサウンドを全面に押し出し、イギリスよりもアメリカからの影響が色濃いスタイルを纏ったFeeder、当然ながらシーンに居場所などある筈も無かったんだけど、それでも地道な活動が新興レーベルのEcho Label(後に6th『Silent Cry』までのFeeder作品をリリースする事になる)の目に止まり契約を獲得、初期の作品がKerrang!やMetal Hammerなどに取り上げられるなどして、少しずつ知名度を上げていく。最終的に彼等がメインストリームへその名を轟かせるのは、ブリットポップがほぼほぼ死に絶えた90年代末〜2000年頃になるのだけれど、その頃アメリカでグランジ以降の流れとしてポップパンクやエモ、パワーポップが勢いを増していたのも、彼等のブレイクスルーと無関係ではないんじゃないか、というのは個人的な推測。いずれにせよ、結成当時からキャリアを通して変な流行りに乗せられず、ハイプから免れられたのは幸運だった。

そして国内外の大型フェスにも出まくるようになり(タカの凱旋公演ともなるフジロック初出演もこの時期)、ようやく完全自力での成功を掴んだ直後での、ジョンの突然の死。理由は諸説あるが、ツアー生活により生じた家族との擦れ違いに苦悩していたという話をどこかで聞いた事がある。悲しみに暮れたグラントとタカは、ただ打ちひしがれるのではなく、この悲しみを音楽に落とし込む事を選ぶ。それが、自分達にとって最も良いセラピーになると信じて。

 

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ジョンの後任となるドラマーには元Skunk Anansieのマーク・リチャードソンが選ばれた。ジョンの線の細いタイトなドラミングとは対照的な、デイヴ・グロールを思わせる豪快で骨太なドラミングが持ち味のプレイヤーである。だがパワー一辺倒ではなく繊細な表現にも長けており、適応力など含めトータルの実力は正直ジョンより上。『Comfort in Sound』ではサポートメンバーとしての参加だったが、『Pushing The Senses』制作にあたって正式にメンバーとして迎えられている。加入以降パワフルさとソフトさのメリハリを器用に使い分けるプレイでFeederサウンドのグルーヴを担っている(2009年にSkunk Anansie再結成に伴って脱退しちゃうんだけど)

そんな彼を迎えて制作された前作『Comfort in Sound』は、ジョンの死への悲しみを包み隠さずストレートにぶつけた楽曲が多い。これまでのグランジ色の強い元気なスタイルから一変、ヘヴィな曲は正直空元気感が否めないし、メロウな曲では墓前で泣き崩れるグラントの姿が目に浮かぶようで、時折聴いてて辛い瞬間もあったりするアルバムなのだが、音楽的にはグラントの紡ぐメロディによりメロディアスかつ深みが増すなど、現在のFeederスタイルの基礎が築かれる作品となっている。悲しみや苦悩、絶望などのネガティブな感情がアートを最も美しく磨くというのは、何とも皮肉なも話である。

このアルバムで悲しみを吐き出せるだけ吐き出したFeederが、その悲しみの先に見た何かを音に具現化したようなアルバムが本作『Pushing The Senses』と言える。

 

何でも良い、人間は悲しい事が起きるとまずその悲しみを全身で表に吐き出していく。それがとにかく涙を流すだったり、ひたすら落ち込むだったり、或いはヤケになったり、または悲しみから逃れようと何か打ち込んだり…など、行動パターンは人によって様々である。そしてそういった行動を経て感情をある程度吐き出し終えると、その悲しみに徐々に「慣れ」、或いは「忘れ」ていく。この『Pushing The Senses』というアルバムが描くのは、その「感情を吐き出し終えて」から、「慣れ」「忘れ」るまでの間の時期の、心の揺れ動きである。残酷な事に時間は常に一方通行で、巻き戻ってはくれない、ただた前に進むだけだ。そして自分の中に沸き上がる感情も段々と薄れていく。あんなに悲しみ絶望していたのに、気付けば涙も流れなくなって、でも元通りには程遠くて…という微妙な感情の移り変わりを表現している。

音楽的に話すなら、ソリッドなバンドサウンドよりも、ポストロック的な壮大さを持った空間演出に舵を切っており、ギターの音もかなり控えめだ。勿論表題曲なんかは今までのFeederらしいロックサウンドを持ってはいるけれども。その代わりにピアノやストリングス、シンセサイザーなどが前面に出ており、これは前作『Comfort in Sound』でも試みられていた手法をより発展させたもの。グラントのソングライティングと歌唱法も、前作で掴んだスタイルを本作のコンセプトに合わせてより進化・深化させており、ただメロウなだけでは終わらない不思議な深みを楽曲にもたらしている。またこの空間演出を作り出す為、一部楽曲には今までのFeeder作品を手掛けたギル・ノートンに加え、Coldplayを手掛けたケン・ネルソンがプロデューサーとして名を連ねている。

そしてアルバムの構成も、そういった感情の移り変わりを表現するように、アルバム前半にシングルカットもされたバラード曲を、後半にはより実験的なアプローチの楽曲を配置し、どんどん暗く沈み込んで、そこからまた少しずつ明るくなっていくようなコントラストを描いている。ダークなトーンで始まったアルバムも、曲が進むに連れて少しずつ光が見え、そして最後の曲「Dove Grey Sands」が終わる頃には、決して立ち直ってはいないけど、ひとつ心の中に整理がついたような、不思議な落ち着きを感じさせる。ちなみに日本盤だとこの後ボーナストラックとして「Shatter」「Victoria」の2曲が追加収録されてるのだけれど、アルバムとカラーが違い過ぎる故か通常より長めのブランクを経てからボートラ2曲が始まるようになっている。これ偶然なのか敢えてなのか分からないけど、敢えてだとしたら製作陣の気遣いがありがたい。こういうのあんま無いからな最近は。

 

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こうして完成した『Pushing The Senses』。セールスも好調、評論家からも好意的なレビューで受け止められ、前作よりは少しポジティブになった雰囲気のアルバムにファンもとりあえずひと安心、そんな作品となった。

そして翌2006年にはキャリアの総決算としてこれまでのシングル曲を集め新曲3曲を加えたベスト盤『The Singles』を発表。新生Feederは、少しずつ元気を取り戻していくのだけれど、ジョンの死がバンドに落とした影は、今日に至るまで完全に晴れ渡る事は無かった。だが、彼等はこの『Pushing The Senses』というアルバムで、その影との向き合い方と共存の仕方、そして「悲しみによって心に開いた穴は、必ずしも塞がなくて良い」という事に気付く。そしてその考え方は以降のFeederの作風に大きな影響を与え、彼等の音楽により力強い説得力を持たせる事となった。次作『Silent Cry』(2008)で、現在のFeederスタンダードと呼べる形が出来上がる事になるのだけれど、そのプロトタイプ又はコンセプトモデルが本作『Pushing The Senses』と言えるんじゃなかろうか、と考えている。

 

 

【好きなアルバムについて語る】Sticky Fingers - Yours To Keep

 

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2019年リリース、オーストラリアのロックバンドSticky Fingersの4thアルバム。

このSticky Fingersというバンド、Googleで検索しても出てくるのはThe Rolling Stonesの同名アルバムの事ばかりで、前作『Westway (The Glitter & The Slums)』(2016)がタワレコ限定か何かで日本盤が出てた、って事以外は日本に殆ど情報が入ってきていない(その日本盤も全くと言っていい程話題にならなかった)。本国オーストラリアではアリーナツアー回る位にはバカ売れしているという、ある意味国民的バンドであるにも関わらず、だ。…と思って色々調べてみたけど別にイギリス・アメリカ市場でも売れてる気配無さそう。本作及び過去作品のチャート情報もオーストラリアとニュージーランドのしかない。完全にローカル特化型のバンドって事らしい。

ちなみに漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズにも同名のスタンドが登場するが、当然由来はストーンズの方で、作者の荒木飛呂彦氏がこのバンドの事を知っているのかどうかは不明。多分知らないと思うけど。いやでも意外と知ってんのかなぁ。

 

オーストラリアのロックシーンってのがどうなってるのか、っていうのは正直よく分からない。確かに過去にはAC/DCAir Supplyとか、最近だとJetとか5 Seconds Of Summerなどの世界レベルで活躍するバンドを輩出してはいるものの、この手のバンドはイギリスやアメリカのシーンに照準を合わせた音楽性なので、オージー感があるかどうかって聞かれると…「?」って感じ。ただこのSticky FingersやHiatus Kaiyote、Tame ImpalaとかMen At Work(コレだけ大分先輩だけど)などを聴いてみると、実験的であれポップであれ、ある種の楽観主義的というか享楽主義というか、なんかちょっとユル〜い感じが根底にあって、これが所謂オーストラリアらしさってヤツなんだろうな、というのは何となく感じる。確かにオーストラリア、いわゆる大都会ってよりは観光地ってイメージだもんな。アメリカみたく発展しまくった文明の坩堝ってよりかは大自然との共存みたいな感じだし。色んなモノが所狭しと押し詰まる大都会から生まれる音楽もあれば、周りに(良い意味で)何もない環境から生まれる音楽もあるし、それぞれ良さがあるけれども、後者の場合は時としてあまりにぶっ飛び過ぎていたりする事もしばしば。確かにTame Impalaはめちゃめちゃサイケ・ドリームポップだし、Hiatus Kaiyoteは変態モダンフリージャズみたいだし、このSticky Fingersもまた、デビュー初期はそういった享楽性を分かりやすく反映した、とにかくアイリーな、ハッパ臭い匂いで充満したサウンドであった。

 

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2008年にシドニーで結成されたSticky Fingers(通称STIFI=スティフィ)。ボサボサの髪にモサモサの口髭、ボロボロのジーンズにヨレヨレのアロハシャツ…みたいな、60年代フラワームーヴメント期のヒッピーのような見てくれで、レゲエ・ダブを前面に押し出し、ビール瓶片手にハッパを吸いながら、煙たい部屋で思い付きでジャムった結果出来たような音楽を引っ提げてシーンに現れた。そのどこか焦点の定まらないフワフワした空気感は、Tame Impalaとは違った意味でサイケデリック(テームは妄想癖のあるオタクって感じだけど、スティフィはガチなジャンキーって感じだった)だったし、同時にローカルなオージーロック特有のユルさに満ち溢れていた。

バンドは瞬く間にオーストラリア国内で人気を獲得する。ワールドワイドに響くスケール感など皆無の強烈な密室感を持った、誰の為にも歌われないようなその音楽は、オーストラリアのローカルファンの琴線にしっかりと触れ、熱狂的な指示を得た。しかしあの強烈にドープなサウンドで熱狂しちゃうオーストラリア人の国民性って一体。同時にヨーロッパ諸国においても彼らの存在は注目を集めたそうだが、当時のセールスなど詳細なデータが手に入らなかったので、どの程だったのかは分からない。当時ヨーロッパツアーも企画されたがキャンセルされたとか。この辺面倒臭いからソース全部ウィキペディア。反省はしていない。

1st『Caress Your Soul』(2013)ではシンプルなダブレゲエで纏められたサウンドだったが、そこから僅か1年半のブランクでリリースされた2nd『Land Of Pleasure』(2014)ではそのハッパ臭さにより磨きがかかり、ビールとガンジャだけでは満足出来ない、ドラッグなどにも手を出し始めたかの如く、より奔放で、よりハイで、より過激なサイケ感を孕んだサウンドへ進化。多分この人達、サウンドがそれっぽいだけじゃなくてリアルにジャンキーだったのかなぁ、って想像してしまう位の勢い。実際に3rd『Westway (The Glitter & The Slums)』を出したすぐ後の2016年末〜2018年春先までの間、バンドは活動休止に入っているのだが、その理由がディラン・フロスト(Vo.)のアルコール依存症治療と精神面のケアの為ってのが、正直うんやっぱりね、って感じだったけど。下積みもそこまで長かったワケじゃないし、デビュー以降かなりハイペースでリリースとツアーを繰り返してたので、ここらで心身共に一度限界が来てしまったというのは想像に難くない。元々ただでさえヘルシーとは程遠い生活スタイルしてりゃ、そりゃ酒量も増えるしハッパも欲しくなるし、ヘロインとかの誘惑にも負けちゃうよね。ロックスターなんてそんなもん。

 

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さてこの活動休止期間だけど、多くのバンドが活休と謳っておきながら水面下でめっちゃ曲作り溜めたりとか、メンバーがソロ活動したりとかはよくある話だけど、このままではかつてのヒッピーよろしく堕落して終わるだけだという危機感を抱いたスティフィは、この間敢えて本当に何もせず、表舞台から一切姿を消す事を選ぶ。その後2018年の3月に活動再開発表、復活シングル「Kick On」は4月リリース、そこからワールドツアーを経て、今作『Yours To Keep』のリリースは年明けて2019年の2月。休み明けでいきなりワールドツアーってちょっと張り切り過ぎじゃない?とは思ったけれど、それくらいリフレッシュ出来たって事なんだろうし、大掛かりな事をしつつも無理しない活動サイクルっていうのが多分この辺りで出来上がってきたんだろうな。

そんな心身共にデトックスされ、活動ペースもこれまでの多忙な活動からの反省を生かし、ノビノビとした環境を手に入れたスティフィ、本作『Yours To Keep』ではそういった環境の変化が反映された、これまでの彼等とはガラッと違う質感のサウンドを鳴らしている。

分かりやすく言うならばハッパの匂いは一切しない、クスリの影響など微塵も見せない、酒の匂いどころか空瓶すら見当たらない、「どシラフ」な音。目に浮かぶのは、ヴィーガンフードをつまみに紅茶やコーヒーを嗜み、大自然に身を任せるかのような情景。時に森林浴を、時に自ら雨に打たれ、時に満点の星空を見上げながら歌われたような、まるで「生命讃歌」のような壮大さ。パッと聴くと最近のIncubusにも通じる自然体感があるが、ルーツとなるレゲエ感も目立たないながらもちゃんと曲中で生きているし、全体的なこの空間演出力などはレゲエのそれに通じる部分も感じる事が出来るが、あくまで過度な装飾を抑えたオーガニックな優しい質感で纏められており、良い意味で癖もなく、入り込みやすいサウンドに仕上がっている。

 

ある種の「老成」をも感じさせる瞬間もあるが、ハッパやドラッグ、アルコールやその他メンタルヘルス的問題からのデトックスを果たすというのは、余程の精神力が無いと出来ない事である(『トレインスポッティング』とか、多くの映画でそういうシーンが描かれてきたけど)。今作での境地に辿り着く前に、彼等、特にディランは想像し難い辛い時間を過ごしてきたのだろう。多少枯れ過ぎた感はあるかもしれないが、オーストラリアの悪ガキ衆だったスティフィは、こうしてひとつ"大人"になった、という事なのだろう。もうクスリもハッパも要らないぜ、ビールとタバコは程々に欲しいけど、ヘルシーなヴィーガンフードと美味しい空気、愛すべき大自然と仲間達、これさえ有れば何も要らない、ただ普通に生きている事がこんなに幸せだなんて…とでも言わんばかりの立ち振舞いである。相変わらず酒ヤケした声だけど、幾分か哀愁を漂わせつつもノビノビと気持ち良さそうに歌うディランの歌声と、それを支えるバンドのナチュラルなサウンドに、そんな姿を想像せざるを得ないのである。

 

まぁでも、ここから先ずっとヘルシーなまま彼等がこういうスタイルで行くとも正直思えないところはあるけれども、そこも含めてバンドの今後が楽しみだなぁと、そう感じさせる1枚である。